府立高校が創立後二十年で新制にかわり、都大付属高校となって今年三十周年を迎える。
多くの英才を出した学校である。今年文化勲章をうけられたがんセンター研究所長杉村隆氏も本校の卒業生で、生物部員であった。
彼が入学した年に私も本校に赴任した。昭和十八年のことである。
旧制の尋常科が移行して新制の一、二期生となり、三期生からは新制中学から入学してきた。
みんな本校に入学できたことを誇りとしていた。優秀な生徒たちであった。
優秀とは多分に性格的なもので、教えられることをよくきいて、理解した上で自分の考えるという集中力のあることを言うものだと思った。
年々に入学してくる学年は、社会の風潮をうけながらそれぞれ特徴を現していった。
五期生から芽生え、六、七、八期には自治活動が華やかに開花し、自治の最盛期を迎えた。
高校時代にはじまる自覚、自我の確立といった事が、友人を求め友人と話合う間につちかわれて、思想の基盤をつくり、ひろく社会にも眼をむけて、人世の旅たちへの準備を始めさせている事を思わせた。
安保闘争のはげしい影響をうけたのは十二、十三期であった。
国中が渦中に巻き込まれた闘争であったから、彼等の眼は政治にむけられ、生徒たちでデモにいった。
教師に見守られながら。十三期には教育問題に眼を向けれる人が多く、在校生に影響を与えた。
ベビーブームが来て十六期は七学級になったがその後は六学級で固定した。
自治と自由、真理の探究、人間形成の伝統の下に師弟の信頼関係はまことに厚かった。
昭和四十二年施行の学校制度ではじめて入学した二十期の時に、学校紛争が爆発した。
民主教育の形骸化を叫んだ紛争であった。
都大付属ほどよい学校はないと言いながら紛争をはじめた。
全否定の紛争だったから、破壊だけで建設のないところに悲劇があった。
都立大学でも紛争があり、すべて終わったのは附属高では昭和五十一年といえよう。
長い年月が、本校のまれにみる良き伝統の灯を消し、惜しい先生方をやめさせていった。
よりよき伝統の建設はいつのことであろうか。
昔の師弟関係を一人の卒業生がいった。
「先生たちは個性的で、中学から入学したばかりの生徒には、一寸背伸びをしながらきく講義に学問の香りを感じました。」
「平素脱線ばかりする先生が批判をうけた時、その先生が逆に説得される学問の奥行を知って感心しました。」
「批判をうけたクリスチャンの先生が人間のさまざまの営みを見透しておられる、その人間の大きさにすっぽり包まれたような気がしました。」
「大学から来た講師の先生も含めて教科書を余り使いませんでした。緊張した授業がすむと皆でフーッと息をしました。
そんな先生方が校庭では気安く話しかけて下さいました。」
先生方が全部よかったわけではるまい。
多分に生徒自身がつくった畏敬と憧憬の幻影もあろう。
しかし教育にはそれが要る。
学校を誇りとし、教師と生徒の深い信頼関係の確立がいる。
「どういきるか」は生徒の問題であり、教師団には話合がいる。