Homeコラム創立25周年記念誌都立大学附属高校創立の頃(1)

都立大学附属高校創立の頃

松岡 正雄(注)    

 終戦後の教育混乱期、二十三年十月に漸く敗戦日本に教育制度が発表されて、六三制の実施となった。 新制度の中学三ヶ年の上に高等学校の三ヶ年が出来たために、都立高等学校(旧七年制)も宙に浮いた存在から都立大学に昇格の構想実現へと発展し、尋常科の下部の二組も、二十四年には新高の二年生と一年に昇級、旧校舎は当分大学が使用するので新高の校舎が必要になった。 生徒数がその時はまだ二年二組と一年二組で百六十名の少数であるから、父兄会としては他の生徒数の少ない都立新制高校に合併されるのを非常に恐れ、或は都立大学と分離して、この二万坪の敷地外に出されないかとの憂慮が強かった。

 旧七年制高校は都内の小学校の秀才が集まった国立大学を目指す特殊な学校であったから、父兄会も伝統的に強力なものが出来て居たが、高校科の大学昇格で新高の父兄会として残ってしまった結果になった。 しかしむしろ都立大学よりも良き新制高校を作ることに魅力を持って居たと思われる。 私自身も昭和四年に府立高等学校の創立当初から教職にあること二十年、新高に残ろうと心をきめて父兄会と共に同憂の見解を深め、密接な連絡と協議を重ねて対策を進展させることになった。

 先ず新高をこの敷地内に残す為には大学の付属高校となることであるが教育大学ではないから実習校としての附属ではない。 慶応や早稲田のように高等科から大学部へ進学するわけでもなく、有機的な関係はないが総長の管理下に入って校長は大学の方から適当な教授が兼務するようになるのは当然だろう。 同根の生として両者は附置の関係になり同垣内に生存する。 ということに落付くように努力を傾倒しなければならない。

 大学は人文学部と理学部が現校舎を当分共同で利用するが、鮫洲校が工学部に昇格すれば将来は理学部が分離して新校舎を建設することになるから、生徒数の少ない新高が校庭の一隅に校舎を建て、従来通り図書館や雨天体操場を共有で使用する代わりに校庭にある父兄会の財産のプールや、沼津御用邸隣りの夏季寮も使ってもらうのも良い。 これが父兄会の希望だ。 私はこの父兄会の心を捕えて、これに生徒と教職員が一体となって新高整備促進委員会を作った。 そして附属高校と新校舎の建設の目的に向かって一同邁進した。 今は故人となられた鈴木三之助先生と二人で熱心な父兄のお宅を訪れ廻り、大学の方では森脇先生に御協力願って、二十五年の一月二十五日に都立大附属高等学校は漸く誕生した。

注:東京都立大学附属高等学校教諭(1948年10月1日から1957年3月31日)。

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