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随想 私はなぜ8期生なのでしょう 

須田大春(8期)    

 1958年3月にトリツを卒業したから50引いて8期生とか、「3年間厄介をかけたから厄介生=8回生だ」といわれて、そんなものかなと思っていたが、大学の同級生の多くが新制高校10期生だと知って、なぜだろうと思った。トリツの生誕は一筋縄ではいかなかったので2年遅れたのか? その頃歌われていた「教師棚卸」には、「九つとせ、ここで出てきたボンジさん、支那哲で説く共学論」というのがあり、「第三高女(いまの駒場高校)との合併話をボンジが画策したがうまくいかなかった」という噂話もあり、そんなところかなと50年余り思いこんでいた。

 今年の記念祭に展示するために、府立高校・都大附高・桜修館をつなぐ年譜の原稿を書くように宍戸理事長から依頼があって資料集めをした。生来の怠け癖から年譜パネルそのものは完成できなかったが、宍戸さん・北原さんのおかげで簡略版が紙に印刷して展示された。この資料集めが50年来のなぞを解いてくれたので報告する。

 1947年4月、戦後教育制度の目玉商品である3年制の新制中学が発足した。小学校の6年と合わせて9年間の義務教育である。これに伴い5年制の旧制中学は1年生の募集を停止した。学校の制度変更には時間がかかる。在校生を新制度に受け入れなければならないからだ。旧制中学は在校生を3年制の新制高校とその付設中学に引き継いだ。

 東京の場合は東京都立第n中学校を東京都立新制第n高校にしたのである。のちにn=1は日比谷、n=5は小石川になる。当時の5年生は1943年4月に東京府立第n中学校に入学した人になるが最高学年を2回続けて6年まで在校し、2年後の1949年3月に新制高校の第一期生として卒業した。府立1中・日比谷には48年の卒業生がいない。

 一方、府立高校(正式名称には東京がついてない)の場合、尋常科4年・高等科3年の7年制であった。成績優秀者の飛び級を制度化して中学5年を1年短縮した制度である。尋常科の1年生は旧制中学と同じ1947年4月に募集を停止した。このときの在校生のうち高等科の3学年はそのまま旧制高校を卒業した。1948年から50年にかけての旧制17期・18期・19期である。

 尋常科4年生だった20期生は高等科を1年だけ修了したところで1949年3月(昭和24年)に学窓を出た。全国の旧制高校生と同じく新制高校卒の資格を意味する「24修」と呼ばれるが、7年制高校の24修は飛び級しているので1年若い。新制中学に1年遅れて、新制高校ができた。都立高校尋常科は東京都立新制高校となった。n=0で前ゼロサプレスされた形である。さらに1年遅れて新制大学ができて高等科が東京都立大学になったのに伴い、東京都立新制高校は東京都立大学附属高等学校になった。

 新制中学発足時に尋常科2・3年生だった幻の21\22期生は飛び級の恩恵を被ることなく6年在校して新制の1・2期生として卒業した。1951\1952年のことである。結果的にトリツの1期生は他校の1期生より2年遅いことになる。単純に他校は5年制の中学で、トリツは7年制の高校だったから発足が2年遅れたといったことではないことがわかっていただけただろうか。

(2013年9月24日掲載)

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